9.小田原 優美な酒匂川と小田原城の品格
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
小田原
横浜から東海道線に乗り込み電車が出ると同時に眠りこけた私は、なんとか大磯で目を覚ましました。大磯を過ぎると景色が変わるので、なんとなく旅行気分になるのです。国府津で下車し、気合を入れ直します。
町はのんびりした感じで、東海道と平行して走る海岸沿いの道にも松並木があるようでした。
歩いて行くと、立派な松がそここに雄姿を見せています。このあたりの松は立派で曇り空ながら気持ちも晴れやかになるのです。
一本、ひさしのように道に突き出している松の木が目に留まり、そこで足を止めると、ここには19番めの一里塚があったところなのでした。一里塚はバス停の名前にもなっています。
東海道小八幡の一里塚このあたりは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所である。
慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。
塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。
塚には榎を植え、旅人の一里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、 塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とある。
Ichirizuka(Milepost) at Koyawata of the Old Tokaido Highway This was where the 19th ichirizuka (milepost) from Edo (Tokyo) was located. In 1604 TOKUGAWA, Ieyasu, the founder of the Tokugawa shogunate, set up Ichirizuka every 4kilometers (1ri) starting from Nihonbashi in Edo along the three major highways. Tokaido, Tosando, Hokurikudo.
A pair of ichirizuka were built on both sides of the highway. It was approximately 9square meters in area. It functioned as a landmark for travelers and the trees planted there proided them with good shade to rest in summer.
東海道歩きをはじめてから、街道沿いに神社仏閣がある風景を見るのに慣れてきました。
大きな川に出ました。酒匂川です。この川は二級河川というのにとても雰囲気があって優美な姿です。架かる橋は1973年にできたそうです。
橋を渡り、超えて首塚を見落として江戸見附跡までたどりつきました。看板には写真があり、「大正時代初期の江戸口見附跡。両端に、後北条時代の総構の土塁跡が確認できます」とあります。大正時代は高い建物がなくて空がとっても広いですね。
小田原城址江戸口見附跡小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの掘や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。
ま江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。
江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。 また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当たっていました。
なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。
The Hojo family, the lord of Odawara Castle in the Sengoku period, built "Sogamae", the biggest fortress with 9km-moats and mounds, surrounding the castle town. This fortress was a prortection from Toyotomi Hideyoshi's attack in 1590. This area is the south point of the fortress, the army of Tokugawa Ieyasu took up the position on the opposite side of Sannogawa River during the battle in Odawara.
In the Edo period, the castle gate became an important checking station in the east of Tokaido, as western Itabashiguchi and Isaidaguchi, the entrance of Koshu-kaido.
When comming from Edo, as shown in the avobe picture, people firstly turn right at the wall of the gate, and then turn left to enter the castle. There was a guardhouse to check the passengers on the right hand (north side) immediately after the entrance.
Since here is about 20ri(80km) from Edo Nihonbashi, an Ichiriduka (milestone) was built at the ocean side.
ここまでくると、小田原駅はもうすぐです。
山王口(さんのうぐち)、 新宿町(しんしくちょう)、 唐人町(とうじんちょう)、 門前町(もんぜんちょう)、 大手前(おおてまえ)、 日向屋敷(ひゅうがやしき)、 など、昔の町名の石碑があり参考になりました 。
山王口山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされています。
また、ここは東海道小田原宿の入り口でもあり、江戸日本橋から山王口までは約83キロの距離となっています。
新宿町(しんしくちょう)江戸時代前期、この町は、城の大手口の変更によって東海道の北寄りに付け替えられた時にできた新町である。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、 郷宿(ごうやど、藩役所などへ出向く村人達が泊る宿屋)や茶店があり、小田原提灯つくりの家などもあった。
また、ここは東海道小田原宿の入り口でもあり、江戸日本橋から山王口までは約83キロの距離となっています。
唐人町(とうじんちょう)
小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許され この地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係が あるものと考えられている。
唐人町の通りは、寛永年間(1624-1643年)、将軍 家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設された もので、その東端には土塁をともなった柵門(累門)が設けられていた。
小田原駅と箱根・沼津へ行く道へと分かれます。まっすぐ小田原駅に行って帰途につくのも味気ないので、小田原城公園を散策してから帰ることにしました。
公園に行く手前に野原があり、色とりどりの花がさきみだれています。ヨーロッパのどこかの村のようです。公園の方に目を遣ると大きな松林が見えます。
敷地内に入っていくと、白い城壁がまぶしく、立派な扉が北条家の勢力をしのばせてくれるのでした。朝だからか人気もまばらで、好きな人とゆっくり散策したり、ひとり物思いにふけったりするのによい場所だとおもいました。
日向屋敷(ひゅうがやしき)地名の由来は、慶長19年(1614)、小田原城主大久保忠隣 が改易となった時、その夫人である「日向御前」が閉 居した屋敷跡があったためといわれている。 江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった