5.戸塚 - 権太坂の勾配が往事を偲ばせる
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
保土ヶ谷から戸塚へ
その日は友人とランチを食べた後、東海道制覇を疑いながらも信じつつ保土ヶ谷駅へと向かいました。保土ヶ谷から戸塚の道のりは、東京の郊外の住宅地を散歩しているようで、道もわかりやすく迷う事がありません。
権太坂の入り口もすぐわかりました。倒れる人や亡くなってしまう人がいたという坂は、緑で覆われ近くに学校もありとても静かなところでした。
思っていたよりも勾配がゆるやかだったので、私は当時のインフラについて想像しながら登ることにしました。怪我をしても有効な消毒方法や治療設備がない時代に舗装されていない道を行くのは大変だったことでしょう。雨の日はぬかるみになり滑ってしまいそうです。
少し歩くと、境木という太くて高い木柱が見えました。
境木の由来ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとし て傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります。
ここまで武蔵だったということを、恥ずかしながら今知りました。そして私はなだらかな坂に遭遇しました。
大坂かつては二つの坂から 成り立っていたようで「新編相模図風土記稿」によれば、 一番坂登り一町余(百十メートル余)、二番坂登り三十間余(五十四メートル余)と書かれています。大坂では、嘉永六(一八五三)年に仇討ちがあったという記録があります。
大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(一九三二)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十メートルほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
戸塚駅に近づいてくると、短い行程で終えることに気恥ずかしさを感じるのと、このままのペースで本当に京都に辿り着くのかという不安が心をよぎりました。しかし、明日の仕事もあるのでひとまず家路につくことにしたのです。