7.平塚 - 馬入橋は思いのほか広かった
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
茅ヶ崎駅-平塚本陣跡
眠い目をこすりながら茅ヶ崎駅へ降り立つと、空は今にも泣き出しそうな雰囲気です。駅のコンビニで朝ご飯を買いました。東海道線全線開通120周年記念のおにぎりです。 1889年7月1日に横浜から神戸までつながったそうです。
駅のバスターミナルを出てしばらく歩くと、1号線に出るので左に曲がります。辺りの景色は一般的な住宅地で、本当に東海道なのかしらと少し不安になりますが、一本松が見えたのでこのまま進んでいくことにしました。
道幅は狭く、当時を忍ぶ風情を感じるものがありません。時折松がちらほら植わっているだけです。町内会の茶屋町という看板が、昔ながらの名前に思えて思わずシャッターを押しました。
前日一睡もしていなかった私は、疲れと雨雲のために持参した傘のせいで思ったように速度がでません。気力も体力も萎え始めたそんな時、 前方に橋が見えてくるではないですか。
橋の上に立ち小さな川の水面をしばし眺めていると、体はかすかに軽くなりました。雨の後で水が濁っていましたが一級河川ということです。
川を渡ってしばらく行くと、大きな鳥居に目を覚まされました。鶴嶺八幡宮です。鳥居からの参道は松並木が1キロも続くそうです。時間があれば拝観したかったです。とても立派な神社です。
更に行くと、また川を渡り、その後は抑揚のない道をあるていくと、ついに相模川に出ました。
歩いて渡るのは生まれて初めてです。左手に電車が行き来しているのが見えて、なんだか気持ちがよくなってきました。 そこまでくると、私は傘を持つのが面倒くさくなったので、山下清先生のように、背中にさして歩くことにしました。でも、橋を降りるときには恥ずかしいので手に持ち替えました。
橋を渡ったところの、石碑になにやら書いてあります。
陸軍架橋記念碑
大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましたが、数日後の豪雨で流失し、しばしば中断して染ましました。
九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始されました。
橋の全長450メートルのうち、馬入側の300メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬入側を担当した第第十六大隊の事績を称えたものです。
碑文
陸軍架橋記念碑
大正十二年九月大震ノ際京都工兵第十六大隊ハ馬入橋架設ノ為
同月十七日起工
汗血ノ労ヲ費ヤスコト一旬餘十月三日竣工
橋ノ長サ四百五十米 突中三百米突
大正十二年十月 工兵第十六大隊長
平成十八年(2006年)三月 平塚市?
その陸軍の石碑を過ぎて国道1号線ではなく、市街地への道へ進むと、松の代わりに銀杏並木が並び、ちょうど今日、七夕の飾りが風にゆれていました。
駅前のアーケードの大きな飾りの下を歩いてずっと行くと、市民センターの脇に江戸見附跡、八間通を過ぎて脇本陣跡、神奈川銀行前に高札場跡と本陣旧蹟碑、などがありました。
とにもかくにも川に癒された一日でした。
平塚宿の江戸見附
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
平塚宿の見附は二箇所、一般に江戸川の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
平塚宿江戸見附は、長さ3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ約1.6メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
平成十三年(2001年)十月 平塚市
写真:明治14年頃の平塚宿の江戸見附 マリサ・ディ・ルッソ氏所蔵(平凡社提供)
平塚宿脇本陣
江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。
この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。
平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801-03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830-44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
平成十三年(2001年)三月
平塚市
平塚宿高札場
高札とは、切支丹禁制や徒労の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、横一間(約1.8メートル)高さ一丈一尺(約3メートル)でした。
平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
平成十三年(2001年)三月
平塚市
平塚宿本陣跡旧蹟碑
平塚市長が??(達筆すぎて読めない)
海道宿駅の高級旅館で徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい、これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
東海道平塚駅の本陣は代々加藤七郎兵衛と称し、現在の平塚2104番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して断っていた
総き?造 間口約30米奥行約68米 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御座所は上段の間であったという
記録によると 徳川14代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している
また明治元年十月と同年三月の両度、明治天皇は東京御幸と遷都に際してここに小休された
このたび平塚支店改築にあたり 旧跡碑を建てて 立てて永く記念とする
昭和四十七年の秋
神奈川相互銀行取締役社長 半田剛?