8.大磯 - 緩やかな汐風が松並木を抜ける
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
特別企画 東海道五十三次ダイエット その1
ここ半年、の暴飲暴食でよりグラマーになった私は、何かしたいと考えました。 しかし、ボーナス&残業代カットの現状を鑑み、つつましく楽しめる減量方法を実践してみたいと思います!
●マイルール
(1)とりあえず品川宿から箱根宿までの十次
(2)下り方向だけでなく、上り方向もOK
(3)順番に歩かなくてもOK
(4)旧道に並行していれば、間違って新道などにいってもOK
●ミッション
(1)8キロ痩せる(2009年7月18日現在4キロ減)
(2)ストレス発散
東海道五十三次ダイエット vol.1
花水川(平塚)-大磯港
大磯まで散歩する余裕がでてきたのか、海を見なくてはならない程せっぱつまっていたのか解らないけれど、 ある日の早朝、私は用事を済ませると、西に向かって歩いて行きました。
あたりがちょうど明るくなった頃で、最初、肌寒さを感じていましたが、 道を行くにつれて体が内側から火照ってきてました。
大磯海岸にはもう何年も来ていません。 駅前の交差点を左に行ったところだと思ったのですが、ちょっと分からなくなりました。
「海岸どっちですか?」
消防署員さんに聞きます。
「ここを下って行けば出られますよ。」
笑顔で教えてくれました。
階段を降りていくと細い道にでます。前方に、朝日を浴びた漁船がシルエットになって見えました。 コンクリートの壁に「大磯港」と赤いペンキで書いてありました。
数名の子供たちが私の横を自転車に乗ってすり抜けていきます。 彼らは岸壁のほうに向かって行くので、私はつられて行ってみました。
着いたところは、数人の釣り人が糸を垂れているところでした。 私は桟橋の先まで行って、テトラポッドの上で遊んでみたかったのですが、無理なようです。 そこは立ち入り禁止区域になっていました。
傍にいた釣り人に釣果のキスを見せてもらった後、 私は仕方なく岸壁に座り、雲からもれる明かりに海が反射するのを眺めていました。
●花水川(平塚)-大磯港 日時:2009年5月25日 歩行距離:約10km(往復) 靴:ウォーキングシューズ
東海道五十三次ダイエット vol.2
花水川(平塚)-滄浪閣(大磯)
今日もまた大磯行きを決行しました。 早朝の爽やかな空気が冷たくて気持ちいいです。 私はメランコリックなイタリアンや、哀調あるコリアンミュージックを詰め込んだMDを楽しみながら道を行きました。
大磯の海岸にでてみると、前回とは異なりサーファーの群れがいました。 なんだか賑やかで私の今のBGMにそぐわないと思い、もっと先まで行ってみることにしました。
さざれ石を過ぎると、私の鼻先が磯の香りを感じます。 なんだかシシリアの海岸に近い感覚です。
しかし、街路樹は地中海風の傘松ではなく、純和風のアカ松(クロ松?)なのです。 それを見た私は、マフィアの姐さん気分から、風呂敷包みを背負って街道を急ぐ相州商人の気持ちに戻りました。
そして、こうなったら大磯プリンスホテルをターニングポイントにしようと決めました。 しかし、ここまでくるのにかなり道草を食っていたので、 時計をみるとそろそろ帰る時間になっていました。
そう思いながら少し歩くと、大きな会館のような建物が見えてきました。 看板には、「ソ・ウ・ロ・ウ・カク」とあります。
滄浪閣で折り返そうと、勝手に言い訳を作って帰ることにしました。 滄浪閣が伊藤博文の別荘だったなんて思いもよりませんでした。
帰り道、上り車線を歩いて行くと島崎藤村の家への道しるべがありました。
細い道を入って曲がります。 さらに曲がると古式ゆかしい日本家屋があり、見学時間にはまだ間がありました。
木曽の文豪の藤村先生は、大磯の地を気に入りって移り住み、ここでお亡くなりになりました。 その枕元では奥様が本を読み聞かせていたとのことです。 最期の言葉は「涼しい風だね」だったそうです。
私は不審者または、熱心な藤村ファンのように、中をのぞき込んだり写真を撮ったりしました。 しかし、実は藤村の本はまだ一冊も読んだことがありません。 藤村先生ごめんなさい!
また、しばらくいくと、お寺の門前に私の眠気を覚醒するような看板が現れました。
「して みせて 言うて 聞かせて させて みて」
なにをして、見せればよいの?
ここで、今、していいの?!私は戸惑いました。
句は続いていました。
「して みせて 言うて 聞かせて させて みて
ほめてやらねば 人はきかぬぞ」
そういう落ちなのか。 鼻の下を伸ばしたオヤジになり下がっていた私は少し反省しました。
●花水川(平塚)-滄浪閣(大磯)
日時:2009年5月31日
歩行距離:約11km
靴:ウォーキングシューズ
お役立ちサイト 藤村記念館公式ホームページ
東海道五十三次ダイエット vol.3
花水川(平塚)-槇の木バス停(大磯ロングビーチ先)
もしかしたら、今日は大磯を超えて二宮まで行かれるかもしれない。という淡い期待を胸に、東海道を西へと下ります。 大磯を過ぎて、伊豆箱根タクシーの建物が見えると、リゾート気分は一気に高まりました。
しばらく歩くと、海へ行く路地がありました。。 ここに来る途中、左手にいくつもの海へ行く道があり、その誘惑をその都度断っていたのですが、ついに誘惑に負け細い道を進んでみました。 松の木々が屈託なく伸びて、ゆうゆうと陽をを浴びています。
さらに進むと町家公園とあり、前方に大きな海が青く光っていました。爽やかなそよ風が火照った肌をなでていきます。この開放感はなかなか日常生活では味わえないなと思いました。 この隣に、吉田茂邸がありますが、このときは全然気づきませんでした。
私は、また元来た道へもどり、二宮を目指して歩きます。 しかし、後どれくらい行けば駅に着くのか、 さきほど、大磯警察に立ち寄って地図を見せてもらえばよかったと後悔しましたが、後にたたず。ということで、 新たに見えてきた松並木を前に、今日はこれで引き返すことにしました。
しかし、乗ったバスが山を巡回して行くために時間がかかり、20分以上もバスの函に揺られていたのです。 あのまま道をすすめばよかったな、またクヨクヨしたのです。その後、私は東海道五十三次の道しるべ本を手に入れることになったのでした。
●花水川(平塚)-槇の木バス停(大磯ロングビーチ先)
日時:2009年6月6日 6:30-7:53
歩行距離:約7-8km
靴:ウォーキングシューズ
東海道五十三次ダイエット vol.4 花水川-国府津駅 / 平塚駅-花水川
先週二宮制覇をしくじった私は、東海道全制覇に挑むことを決めました。本まで買ってしまいました。 第一章は武蔵&相模です。 順繰りに歩くのは無理なので、歩いたところを塗りつぶす方式にします。
平塚の金目川にかかる、花水橋にさしかかると高麗山がみえてきます。 幼いころに遊びに行った山です。 30年後にこんなことをしているなんて、当時は想像もせず、祖母が握ったおにぎりに呑気にむしゃぶりついていたものです。
この山は、平塚宿の浮世絵に描かれていて、当時はランドマーク的存在だったんだと思います。 横浜ランドマークタワーのような感じかな。川を越えて少し歩くと、山の麓に、わらぶき屋根の家があり、往事の雰囲気を醸しだしています。
さらに歩いて、というより、よく考えてみると帰りの時間が決まっていたので、国府津までいくのには走らないと間に合いません。そこで私は走り歩きしながら道を急ぎました。 途中、化粧坂のバス停で右の旧道にはいります。
坂を登っていくと、瀟洒な家が並んでいて、庭先にはあじさいなどの色とりどりの花が咲いています。松と絡んで言い画になっていました。ここが化粧坂の一里塚になります。江戸から十六里の塚です。当時、海側に榎が、山側にせんだんが植えられたそうです。 化粧坂は、名前の通り坂になっていて走るのにはちょっときつかったです。
曾我兄弟のお兄さんのお嫁さんである、虎女が、ここの井戸で顔を洗い、化粧をしていたのでこの名前になったということです。
化粧坂の一里塚旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より十六里の西に日陰で風よけなどで小休見の場となる。高さ約三米程の上に海側に榎を山側にせんだんを植えた。
大磯町
その後、下り坂にはいると、ここで道がちょっとわからなくなったのですが、なんとか大磯駅前の交差点に出てきました。 少しいくと、大磯警察署の前の本陣につきました。ここは小島本陣、尾上本陣があります。
本陣
宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる大旅館を本陣という。
本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて此の名称が用いられた。
享和三年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は、夫々246,238,235坪であった。
本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。大名と側近は本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。
尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあった。
これ等の本陣は天保七年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる。
大磯町経済観光課
途中、
「心なき、身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の歌で有名な西行法師にちなんで建てられた、
鴫立庵を横切り、上方見附を通り過ぎ、さらに走ります。
上方見附
見附とは本来城下に入る見張り門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程でその上に竹矢来が組まれていた。
宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。 この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
そこには宿場の出入り口である表示の御料傍示杭がたっていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出人口を示す役目をはたすようになった。
大磯町経済観光課
風雅な海の町並みが続いていきます。 私はそんな雰囲気にそぐわない、髪を振り乱し、上気した顔でマラソンのラストランのような風情でした。それに気づいたのは、大磯ロングビーチ近くのコンビニで鏡を見たからです。
ランニングなんて、ここ数年していなかったのでもうめちゃくちゃです。 途中、きれいな草花に励まされ、二宮に入りました。
二宮に入る手前に山への道が右手にあり、遊歩道になっているようです。東海道を制覇したら、ゆっくり来てみようかと思います。
大磯高麗山のみち
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る長距離自然歩道です。自分の足でゆっくり歩いて、豊かな自然にふれ、歴史などをたずねながら、ふる里をみなおしませんか。
このコースは、県内17コースの一つで、こゆるぎ浜、東海道の松並木、鴫立庵、湘南平、高麗山、高来神社がみどころです。
やっと二宮に入りました!梅沢海岸入口の立て看に心を誘われましたが、気持ちを頑なにして先をいそぎます。
その時、あずき色のランニングに短パンのお兄様が、颯爽と私を追い越していきました。彼はかなりの年配でしたが、日に焼けた筋肉質の肌に汗が光って、まるで カールルイスのようです。そこで、私は彼の後ろをついて行くことにしました。 横断歩道に差しかかった時です。彼は赤になりかけるところをうまくすり抜けていくのでした。 私は置いていかれました。 仕方なくひとりで走っていると、目にえんじ色が飛び込んできました。彼はもちろん私を迎えにきたのではなく、折り返してきたのでした。 私はペースメーカーを失い、ちょっぴりがっかりしました。
しばらくいくと、左手に、旧東海道の名残りの立て札があります。
立て札近くの松の木に隠れるようにして、二宮の一里塚の石碑がありました。ここは大磯と小田原の真ん中なのだそうです。この石碑を左に入り、 住宅街になっている旧道を歩いて行くと、普通の一戸建てのお宅の前に松屋本陣跡がありました。
東海道・一里塚の跡
慶長9年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ、東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに塚を築かせ、交通の円滑化を図りました。
一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。
ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は、高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。
周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。平成十七年十二月 二宮町教育委員会
松屋本陣の跡
江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所にもうけられました。
このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋、鳶屋、釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれ大変賑わっていました。
その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。
「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮市指定重要文化財になっています。
平成十七年十二月 二宮町教育委員会
しばらく歩くと、そこここに海へと降りていく場所があり、飛脚になったつもりの私の決意がぐらぐらしました。中村川にかる押切橋を渡れば、もうそこは小田原市です。 ちょっと嬉しくなりました。
町屋バス停近くの古い家屋もいい感じです。 また疲れが出てきましたが、左に見える海と柑橘系の果物や汚れない花の色彩に、再び元気をもらって走り続けました。
もう少しで国府津駅というところまできて、 すぐ海岸に降りられる場所があり、変な看板にも見とられ(たぶん津波に注意!)、寄ってみることにしました。国府津の海は汚れがなく、純粋に綺麗でした。
何も遮るものがない、白い空、ゆるやかな波が小石ばかりの浜辺に静かに打ち寄せてきます。数羽の鳩と 数人の釣り人がいるだけでした。ほんの数分でしたが、心は十分満たされました。
ようやく駅にたどり着くと、平塚までの切符を買い求めます。電車の中で涼みながら、歩いてきた風景を眺めます。 東海道で平塚まで戻ると、元来た場所までよれよれになりながら走って帰りました。
●花水川-国府津駅
日時:2009年6月13日 6:00-8:32
歩行距離:約13km
靴:ウォーキングシューズ
費用:
水350ml 105円
コーヒーブラック190g 120円
黒酢バー 105円
●平塚駅-花水川
日時:2009年6月13日 9:00-9:12
歩行距離:約1.5km
靴:ウォーキングシューズ
費用:
JR 国府津駅-平塚駅 230円
東海道五十三次ダイエット vol.5 花水川(平塚)-さゞれ石(大磯)(往復)
先週、東海道歩きをさぼってしまいました。 久しぶりに歩いてみると、両腿と腹回りが重たくて動かないです。
私の体調とは打って変わって、外は快晴の空が広がっています。花水橋に掲げられた、新一里塚の看板に描かれた東海道平塚の画を出発点にします。 朝6時なのに夏の陽は強くてすぐに汗ばんできました。
大磯駅前交差点のファミリーマートまではすんなり行きました。ここを過ぎると、大磯セレブ御用達の、織江せんべいの店と西行まんじゅうの店があります。どちらの店舗もまだ戸を閉めていました。
照ケ崎海岸への入り口を過ぎ、井上蒲鉾店と鴫立庵の間の、さゞれ石交差点で海へ降りてみることにしました。
高架をくぐると、白い波しぶきが目にとびこんできます。青い空を背景に、釣り人が海風を浴びながら糸をたれていました。さゞれ石という名の通り、小さな小石が浜を埋めています。
私の小さな屈託はすべてこの波にさらわれてしましました。
戻るときに鴫立庵の入場時間を確かめると、9時からだったので、門前を眺めただけで帰途につきました。
湘南発祥の地大磯の由来崇雪という人が寛文四年(1664)頃、西行法師の詠んだ名歌
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立庵の秋の夕暮」
を慕って草庵をここに結び標石をたて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し
「著盡湖南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから、湘南と呼ばれるようになりました
平成八年四月
鴫立庵
寛文四年(1664年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を選び、西行寺をつくる目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場の一つといわれています。
崇雪が草庵を結んだときに鴫立沢の標石を建てたが、その標石に 「著盡(ああ)湖南清絶地」と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立庵の 秋の夕暮れ (西行法師)
●花水川(平塚)-さゞれ石(大磯)(往復)
日時:2009年7月26日 5:58-6:57
歩行距離:約5km
靴:ウォーキングシューズ
費用:0円
東海道五十三次ダイエット vol.6 花水川(平塚)-さゞれ石(大磯)(往復)
今週もまた同じコースを行きます。
外は曇り空で前回ほど暑さはかんじられません。なので、最初から走っていくことにしました。
大磯駅前でもうリタイア、それからは歩きです。玉のような汗がたくさんでてきます。私のそばを何人かの自転車の人が過ぎていきます。
照ケ崎海岸の交差点のそばに、虎御前にまつわる石があったことがわかりました。曽我の仇討ちは、日本三大仇討ちの一つとあって、後世にも語り継がれたのですね。
海岸につながる川の柵に、蜘蛛の巣にくっついた鳥の羽がひらひらと揺れています。
此辺大磯宿の史跡 虎御石曽我十郎の剣難を救った身代石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。
江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにはあがらずといふ色好みの石なり…」とある。この場所におかれていた。
大磯町
今日のさゞれ石海岸は白いベールに包まれていました。自分のこの日のツキを予測しているようで、微妙な感覚です。
海岸で釣りを楽しんでいる人たちの前に、漁船が一隻横切り、また戻る様子です。戻りながら、網を打っていきました。獲物を取る姿は男っぽくていいですね。
この交差点の上り車線に、また立札を見つけました。
此辺大磯宿の史跡 高札場
幕府の示達する「掟」(隣の宿場までの定賃銭、切支丹禁制札、徒党禁止札、放火禁止札など)を掲示した。
高さ約三米程、巾約五米程で幕府の権威を示すために見上げる様にできていた。
大磯町
そして、大磯消防署の交差点には、また何時も見逃していた立札がありました。。
此辺大磯宿北組問屋場の史跡
全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、新しい人足や馬が準備されていた。大名行列などの際には大磯周辺の助郷村々から人足や馬を動員する差配を取り仕切っていた。 そして宿場の運営にたずさわっていた重要な場所である。
大磯町
大磯小田原間お定賃金 正徳元年
一、乗掛荷人共(人と荷弐十貫迄) 壱百八拾五文
一、 軽尻馬壱疋(人と荷五貫迄) 壱百弐拾四文
一、 人足壱人(荷五貫迄) 九拾文
帰り道、雨が一粒落ちてきたので、私は急ぐことにしましたました。道ばたに弱ったトンボが休んでいました。羽に触れてみると、大きなピスタチオ色の目をくるくると動かして、最期の感情を私にぶつけてくるのです。
●花水川(平塚)-さゞれ石(大磯)(往復)
日時:2009年8月2日 6:02-7:00
歩行距離:約5km
靴:ウォーキングシューズ
費用:0円