19-20.府中から丸子へ - 安倍川を渡り山中へ
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
府中宿から丸子宿へ
疲れ果てた私は、総合運動場付近で国道から1号に入るの忘れ、東静岡駅を過ぎたころ漸くそのことを思い出しました。静岡駅に近づいてくると大きなビルの前に東海道府中宿の石碑がありました。
府中宿伝馬町にとても詳しく書いてあります。府中宿は静岡の中ではいちばん大きい宿ですが現在の街が発展しすぎて往事の面影がありません。華陽院が、徳川家康の祖母の菩提寺で参勤交代の大名たちがお参りしたということなので、その辺りに行くと面影があるのかもしれません。
1843年の人口は14,071人だったそうです。同年の興津宿はハブ宿だったにもかかわらず1,668人だったことからしても、規模の大きさが想像できます。お城もあったことですし。そういえばもうすぐ尾張が近づいてきました。
ホテルにチェックインして、あまりにも足が痛いので、奈良市でRYO整体院を経営する整体師さんのブログを深く読み入りながら眠りについたのでした。
翌朝のビュッフェにはいなり寿司、しかもわさび入りのいなり寿司と赤だし味噌汁がありました。横浜ではなかなか出会えないメニューは嬉しいものです。とっても美味しかったせいか、ぐずぐずしているうちに7時をまわっての出発となりました。
今日は足が痛い足を引きずりながら岡部まで歩かなければ行けません。 RYO整体院の教えから、足の内股に力を入れて歩く方法でやってみようと思います。
安倍川を渡って少し行くと、安倍川餅で有名な石部屋さんがありました。もちろんまだ開店前です。扉の外からもおいしそうな空気が感じられます。しかし私は進まなければいけません。安倍川は、中ほどをちょろちょろと細い川筋が流れていました。澄み切った空気の中を歩くのはとても気持ちが良かったです。
米川道と千手の里手越の看板から旧道に入っていくと、歴史を感じる風情になります。ここでは道に迷わずに大きな松を何本か通り過ぎて歩いていくことができました。すると「ようこそ丸子宿」の立て札が見えてきました。
当時、丸子宿への道はおいはぎが出るくらい寂しい場所だったそうです。丸子は小さな宿で1843年の人口は795人ということでした。とても静かな1キロ少しの通りです。丸子宿ではそれぞれの立て札に俳句が書かれているのを楽しみました。
とろろそばで有名な丁子屋のお店も開店前です。私が丸子に向かって歩いて行くときに追い抜いた消防車がありましたが、この近くにとまっていました。救急車が来ていないところを見ると怪我人はいなかったようで少し安心しました。
丸子宿を出る所には定・宿駅諸法度の立て札などが掲げられていました。 その先のサークルKの前に、名残の松という名の大きな松が残っています。