23-25.島田-金谷-日坂 - 石畳で脚が号泣、菊川の里で慰められる
東海道五十三次 / 22次 藤枝宿 - 41次 宮宿 / / 2009-2014
島田-金谷-日坂
今日は朝から足が言うことをきかないくらい痛みます。私は今日中にどうしても袋井まで歩かないと、明日浜松に着かないので必ず7里の道を踏破しなくてはいけません。追いつめられた感じがあったのか、コンタクトレンズ洗浄液をホテルに忘れたままチェックアウトしてしまいました。
ともかく、赤飯とバナナを食べて元気をつけることにしました。
大善寺というお寺の鐘を撮影するときまでは、足がしっかりしていましたが、徐々に痛みが復活してきました。右足膝下の下半分が象の脚のように腫れ上がっています。ひとまず大善寺についての解説文を見てみると、当時、大井川を渡れるか渡れないかを鐘を撞いて知らせていたそうです。騒音もなかったであろう江戸時代には、鐘の音がよく響き渡ったことでしょう。
大善寺の梵鐘
当時の鐘は、天明4年(1748)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。
しかし、この鐘は、昭和19年(1944)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和46(1973)年に新しく造られたもので、毎月一日・十五日と大晦日に撞かれています。
島田宿 金谷宿 史跡保存会
島田市教育委員会
道はまっすぐなので歩きやすいです。大井川は、思ったより大きい川でした。渡ったところに、江戸時代に川を渡っている画が掲げられていました。井桁の上に偉いお方が乗り、5人の男が担いでいます。庶民は男に肩車をされています。女の人も肩車されています。
もしこの時代に戻れるのならば、この風景を見てみたいものです。男たちは今の日本男子のような軟弱さはなく、とてもたくましかったに違いありません。
金谷宿は家々に江戸時代の表札が掲げられていて、こじんまりとした静かでよい宿でした。
高架を超えると旧東海道の石畳の入り口です。厳しい旧坂に足も体も半べそです。坂を上ったところには、諏訪原城跡がありました。今は公園になっているようです。こういう静かな史跡をゆったり散策してみたいと、夢見心地になりました。
ほんわかしたのも束の間、次は菊川坂の石畳です。100メートルの下り坂で、下り坂もそれなりにきつい感じです。これらの坂は町民約600名がお金を出し合い、平成13年に復元させたそうです。
菊川宿は金谷と日坂の山あいにある小さな間の宿です。宿の紹介板などを眺めていると、初老の女性がひょっこり出てきました。
「どこからきたの?若いからいろいろ歩けるからいいね。私はもう歳だからねぇ」
と優しく話しかけてくれました。語尾に「だに」とついているのが何とも可愛らしかったです。この村では、菜飯田楽という名物があるそうですが、どこで売っているのでしょうか。
金谷町の昔ばなし(8)「与茂七越し(よもしちごし)」
嘉永安政の頃(今から約140年前)菊川の宿に「与茂七越し」と云って与茂七権七と云う駕籠かきの名人が有った。その当時の菊川宿は、金谷宿と日坂宿の狭間に有って間の宿として栄えていた。
ここに住む人々の多くは、駕籠かきや荷持ち、草鞋や炬明(たいまつ)などを旅人に商っての渡世であった。後世までの名を残した与茂七権七の名コンビは大人と子供に近いほど背丈の異なるコンビで、「小僧の与茂七鬼の権七」と云う渾名で呼ばれていた。
ここ菊川宿は、東西どちらに越すにも、東へ菊坂物見坂、西へ小夜の中山青木坂と云う急坂の難路であって、大小コンビの駕籠屋にはうってつけの働き場であった。というのは、上り坂は与茂七が前棒(さきぼう)、下り坂は権七が前棒で、その歩幅と歩調はピッタリ合ってカラクリ人形のようであったと云う。
この坂道を、侍やお姫様などを乗せて走って上り下りしても、大棒(だいぼう)(駕籠を吊っている太い担ぎ棒)の先端に水を入れた茶碗を乗せてあ歩いても、その水はこぼれないほど駕籠は少しも揺れなかったということである。
腰の良さと、担ぎ技の巧みさは東西道中の評判となり、江戸旗本の六尺連(高位の人を乗せる駕籠かき)もこれを見、また習いに来たということである。
※金谷町菊川の方から寄せられたお話です
菊川を出て日坂に向かう山道は目を見張るほどの美しさでした。広がる茶畑に、たわわに実った柿の橙色がアクセントをつけていました。
途中で通り過ぎた久延寺では掛川城主山内一豊が徳川家康に茶を差し上げたそうです。新年の飾り付けをするので皆さん忙しそうにしていました。隣にある扇屋の子育て飴屋さんも扉を閉めていたので、私はロッテの塩キャラメルをしゃぶるしかありませんでした。
疲弊した私が元気をとりもどしたのは、佐夜鹿一里塚の手前で、大好きな西行法師の歌碑を見つけたからです。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
69歳の作だそうです。