34.吉田 - 夜も更けて町の灯りを頼りに辿り着いた宿
東海道五十三次 / 22次 藤枝宿 - 41次 宮宿 / / 2009-2014
吉田宿の朝は小雨がぱらついていた
朝目覚めると外は雨模様でした。ホテルの朝食も定時にできないといわれたので出発が遅れることになりました。灰色の景色の中、濡れる道を行きます。
豊川に着くまでは東海道の標識があるのでまごまごせずに歩けました。川に架かる豊橋の手前でしばし立ち止ます。川の両岸に霧にかすむ町並がシルエットになっていました。ここにも何千人かの生活があるのです。
船町と高札場
船町
その昔、このあたちは四ツ谷(四ツ屋)と称され、数軒の家屋がまばらにある河原同然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは、浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)とその一門80名程の人々といわれています。その後、天正(1590)に吉田城主池田照政(輝政)より定住を許され、庄屋役を命じられ、以後船町と改めて町の開発を行ったようです。
近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川舟運の終点として、また伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河におけkる最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、地子(じし)(賦課した地代)免除の特典が与えられるなど吉田24町の中で独自の立場にあったようです。
高札場
寛永13年(1636)幕府の命により、橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより70m程下流)に高札場が設けられました。この高札場には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが、板に書かれて掲げられていました。
豊橋市教育委員会
そぼ降る雨の中、歩いていくのは大変でした。私は背負っているバックパックごとレインコートを纏うことにしました。会社に勤務中に急に外が寒くなり、困って100円ショップで買った男物のレインコートです。普段持ちのペラペラのコートとは違い、撥水機能と防寒機能がすばらしくよいものでした。急に体が温まり、それだけで元気がでてきました。これほどに役に立つと思ってもみませんでした。
途中、聖眼寺に松尾芭蕉の足跡を見つけました。貞享4年(1687年)に芭蕉が渥美郡保美の里に愛弟子を訪れる際に立ち寄って詠んだ句が松葉塚に刻まれているそうです。
松葉を焚いて 手拭あふる 寒さ哉
吉田と御油の間にある、伊奈村立場茶屋加藤家跡の二つの石碑を眺めていると、加藤家出身の俳人烏巣(うそう)は芭蕉の友達で、京都で医者を生業としていた、ということが書いてあります。
やはり、いつの時代にも環境にも才能にも恵まれている人がいるのです。私はまた人と比較する癖がでてしまいました。恵まれないと感じるのは自分のは努力が足りないだけかもしれません。