43.四日市 - 東海道と港へ通じる東西道路
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
四日市は遺構があまり残っていないのですが、古民家が多かったので、私は家の格子のデザインを鑑賞しながら先をすすみました。諏訪神社ちかくの旧道に「すぐ江戸道」という道標があり、ここの一帯は南町と呼ばれていたそうです。
旧町名 南町
東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に一した市場であることから、弘治・永禄年間(1555-1570)に南市場と称された。 江戸時代には宿場町として栄え、寛文3年(1663)には町名が南町と改められた。問屋場や脇本陣、飛脚などとともに多くの旅籠が集中し旅籠町とも呼ばれた。その後、東西に新開地として広がった。
細い道にはいってくると、東海道案内版がいくつもあり、案内板はあなたは現在、四日市-日永-小古曽-采女の間のこの地点にいますよ。というような作りになっているので、道行きが楽しくなってきました。
大宮神明社を過ぎたころ日が暮れてきました。泊の手前で名残の一本松を眺めます。
東海道名残の一本松
むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。この松はその縄手に植えられていた物が残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない。
縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。
日永の追分の手前に東海道日永郷土資料館がありました。蔵が併設されていて立派な建物でしたが、閉館後で中に入る事ができません。日永の追分には、右京大坂道、左伊勢参宮道とありました。
私は近くの近鉄内部線追分駅まで歩いて、この日の宿がある四日市に戻る事にしました。内部線の車両はパステルカラーの虹色に塗り分けられていてとてもかわいらしかったです。