49.土山-狭山茶が冷えた体をあたためた
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
山中一里塚を過ぎて道の駅が見えてくると、もうそこは土山宿の入り口なのです。道の駅でコーヒーを飲んで冷えた体をあたためることにしました。ここは狭山茶の産地いうことで、お茶の無料サービスをやっていました。私はコーヒーと同時にお茶も味わいました。狭山茶はそれほど渋みがなく甘みが感じられました。
道の駅を出ると晴れ間が広がっていました。ここでも往時の屋号を各家が軒先に掲げています。瓢箪屋、たば古屋、扇屋、油屋など。と、油断していると霰が降ってきました。甲賀の気候はこんな特徴なのでしょうか。
土山宿の街並みもよく保存されていました。森鴎外が泊まった宿や、本家櫛所、二階家本陣、土山家本陣、うかい屋さんなどぶらぶら散歩にもってこいの町並みです。
東海道土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視され るようになり、武士の従来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。
とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役場で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。
この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。
平成七年三月 土山町教育委員会