50.水口-曳山と三筋の城下町
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
土山を出て水口宿に向かっていると、旧街道松並木は左の矢印の看板が現れました。私は間違えて国道一号線を歩いていたようです。松並木に戻るとまたしても雪が降ってきて、浮世絵のような光景になっていたのです。
しかも、土山宿を出たとおもっていたのに、まだ土山宿の屋号の看板がてていました。土山宿を出たと思っていたのは私の勘違いでした。
雪の中、水口の大きな塔が見えてきました。ここから水口町岩上自治区になります。今在家一里塚があった一体は今郷というところで、史跡や名所が点在しています。
私は雪のために体が寒くなって来たので、また一枚重ね着しました。
今在家一里塚(Imazaie Ichirizuka)
一里塚は、街道の脇に一里(約4キロメートル)ごとに、旅行く人々の目印として造られた塚で、江戸時代に全国的に整備されました。
今在家一里塚は江戸日本橋から112里目にあたり、「今在家村地券取調総絵図」によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。
江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、かつては桜が植えられていたと伝わります。
作成:甲賀氏市民協働事業 今郷好日会
高札場(Kosatuba)
高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代六万箇所を越える全国の村々にあまねく立てられていました。
多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多く、この付近には今在家村の高札場がありました。また、小里村の高札場も「東海道分間延絵図」に描かれています。
作成:甲賀氏市民協働事業 今郷好日会
高札場と名残りの松並木を過ぎると山川橋を渡り、ようやく水口宿に到着しました。そこに分かれ道があり左への矢印があります。左に進むとまた分岐点があり、ここには矢印がありません。しかたなく野生の勘で左の細い道を選びました。二手に分かれていた道が再度繋がったとき、私は自分の選択が間違いだったと気づきました。三筋の道を間違えてしまった。しかしもう疲れきっていて元の地点に戻る気力がありません。
甲賀市ひと・まち交流館に寄って地図をもらいました、曳山は格納されていて見る事ができません。水口城にある資料館も門が閉まっていて入場できませんでした。
私はスーパーに寄って宿へと帰ることにしたのです。