51.石部 - いしべ宿驛で一休み
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
水口から石部へ
朝遅く目が覚めました。6時半にはチェックアウトするはずでしたが昨日の夜更かして結局眠りについたのが0時過ぎだったんです。雨は止んでいました。
水口石橋駅からまっすぐ続く道を歩いていると神社がありました。藤栄神社といって、旧水口城内にあったそうです。由緒正しいの香りがします。早朝の神社は神聖な雰囲気でした。
その後、この道が旧道から逸れていることに気づき、再び旧道に戻りました。力石を曲がり、百間長屋跡に続く道は昔からの変わらないような顔をして静かに佇んでいます。私は清々しい早春の空気とともに、一歩ずつ西へと進んでいきました。
一里塚がある五十鈴神社に、水口町の名木イヌマキがありました。 一里塚を過ぎるとのどかな田園風景が広がっています。当時北脇縄手と呼ばれたところです。江戸時代に整備された道路脇を流れる清水や、一面に広がる畑とその先にそびえる山々の景色は江戸時代の旅人の目にも映ったに違いありません。
さらに行くと、道路の飛び出し注意の看板が可愛らしい子供の甲賀忍者なのでした。
横田渡の道標を見て橋を渡ると一里塚と立派な常夜灯がありました。横田渡は春から秋まで船、冬は土橋で通行したそうです。当時の旅人の不便さを少しだけ分かった気がします。再び歩き出すとすぐに水口宿に入るときに見た大きな杭がありました。ここで水口とお別れです。
少し行くと、東海道きずな街道の看板と、道の脇に東海道の文字入りの植木鉢に植えられた美しい花が並べられているので、旧道を確認することができました。石部宿の手前には、三雲城址の幟がたくさん立っていて、旧道の雰囲気を盛り上げてくれていました。ここの自治体みなさんの熱意に感謝したいです。
私は由良谷トンネルをすぎ、これより石部宿の道標を確かめました。石部宿は狭い道が旧道らしいのですが、それほど遺構が残っていないのです。時間に余裕があれば少し離れたところにある歴史民俗資料館に行くべきでした。
高札場跡、問屋場跡をすぎ、本陣跡の手前にいしべ宿驛があります。 いしべ宿驛は歴史展示つきの休憩所になっていたので私はそこで小休止することにしました。
東海道五十三次 石部宿 高札場跡
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道一一三号線(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。
約八十センチメートル程度の石垣の上にたっていた。元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。
一般社団法人 湖南市観光協会
協賛:竹内宏・和子 東海道五十三次完歩 記念 2001.4-2002.6
東海道五十三次 石部宿 問屋場跡
石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務)を行うところを問屋と呼び、いつも役人が三名~五名程度在中し人馬の継立をする必要な仕事を分担してにぎわっていました。
場所は、石部中央の信号から北へ百メートルほどの砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角のあたりに移ったといわれています。
一般社団法人 湖南市観光協会 協賛:甲賀高分子株式会社
ここでは田楽と、石部宿の伝統食いもつぶし(近江牛入りもあり)が名物です。どちらも食べずしまいでした。今日はいつもよりゆったりしたペースです。西縄手を出て石部宿とお別れしました。