52.草津 - 皇女和宮様ゆかりの地
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
風景がのんびりとしているように感じるのは、陽気がよくなり差す陽が春らしい彩だからかもしれません。梅の花が満開で見応えがありました。
私は六地蔵村に入っていきました。ここにもたくさんの家の前に屋号の表札が掲げられています。道を進むと和中散本舗の立派な建物が目に入ってきました。道中薬を売る有名店だったそうです。どのような薬だったんでしょう。煎じ薬か丸薬か……。そんなことを考えながら歩きました。
当時の屋号は○茶太、麹市という、生業が想像できないものから、鳶屋、酒屋、綿屋など、すぐに分かるものまでさまざまでした。
すこし疲れたので、立派な松の下で一休みすることにしました。この松には「肩かえの松」という名がついていました。ここで旅人が休んだ後は荷物を別の肩に変えた事からいわれているのだそうです。
私は元気を出して歩くことにした。また次から次へと見える表札や、曲線美が魅力的な瓢箪がぶる下がっている瓢箪屋さんを眺めながら歩きます。すると田楽発祥の地の碑が見えてきました。田楽茶屋の跡にも碑が立っていました。昔の田楽も今と同じ味だろうか、試してみたかったのですが、田楽を売っているほっこり庵はこの日はお休みしていました。
諦めて草津本陣だけを念頭に置く事にしました。しかしそんな心を揺すぶったのは、馬の老馬ホーム跡があったからです。老いた馬を鞭で打つことを禁じ、余生を過ごす場所を東海道、中山道の駅である草津近くに作ったそうです。今日まで続いていたならば、私も老後はこの近くに住んでみたかったです。
本陣手前、私は名物のうばがもちや本店に立ち寄ることにしました。東海道後半から気づいたことですが、私は食い気だけが生き甲斐のようです。
草津本陣に近づくと、東海道中山道の大きな道標がありました。ここから中山道を通ってまた日本橋に戻ることもできます。
本陣は公開されていて、柏の葉を意匠にした屏風などは大変美しいものでした。文久元年(1861)皇女和宮が徳川十四代将軍家茂に御輿入れする道中に立ち寄ったそうです。三千人の大行列だったそうですが、家茂の没後、明治7年に京都にいた和宮が状況した際はわずか十五人ほどの侍従や駕籠もちが仕えていたということです。
草津本陣は展示物のほとんどを撮影禁止にして、800円のグラビア誌を買いたくなるように仕向ける趣向だったので、さすがは近江商人と関心してしまいました。交流館も、川崎宿では無料でしたがこちらは有料なのです。しみったれた根性になった私はモヤモヤを発散するために、交流館での道中行脚コスプレを一心不乱に勤しむことにしました。
今日は早い時間に行程が終わってしまい、石部の資料館によればよかったかなと後悔が頭を掠めましたが、「百点を目指して疲れるより、間違いがあっても安全に、往時を偲びながら歩く」という即席で決めた一義に沿っていたとして、「よかったことにしよう、めでたしめでたし!」と、缶チューハイを買って宿に帰りました。