53.大津 - 膳所城下町と露国皇太子遭難の地
東海道五十三次 / 42次 桑名宿 - 三条大橋 / / 2009-2014
草津のホテル出る際に、よく考えれば京都で行きたい神社があったことを思い出しました。そのために、この日の東海道行脚がお座なりになった気がします。
外は天気が良く空はとても高いところまで晴れわたっていました。私は草津本陣跡から京に向けて出発しました。
本陣跡も寝静まったような静けさで、江戸時代にタイムスリッップできるような気がしました。早朝の本陣は気品が漂っていました。考えてみれば江戸時代にはみな早起きなので、本陣周辺がざわついていたのかもしれません。
草津宿交流館を過ぎると由緒正しい建物が現れました。門屋場と立場です。
そこを過ぎてから、私はとにかくわかりずらい「野路の一里塚」にたどりつきました。道標がたくさんあったのでたどり着く事ができました。
さらに行くと、大津という看板が出ているのでもう大津宿に着いたかと喜んでいると、ただ草津市から大津市になっただけなのでした。そのそばで、黄金色に咲く連翹と早咲きの桜が春を告げていました。立場を過ぎたところで、三条大橋まで五里余りの表示が目に留まりました。ゴールはもうすぐそこなのです。
そして瀬田の唐橋を渡ります。初めて間近に見る琵琶湖は海のように広く、水面は穏やかです。かすかに凪がたっていました。ここからずっと、よくわかりにくい細い道がつづくので、スマートフォンのGoogle Mapとにらめっこしながら歩きました。
江戸時代から残された松が健気に影を作っています。膳所城下町の南総門から鳥居川につづいていた松並木の残りなのだそうです。膳所の商店街は、五十三次の浮世絵を軒先に飾るなどして東海道歩きをサポートしてくれていました。疲れた気持ちがすこし持ち直しました。
かつて、ここに膳所城というお城があったのです。そして、私は源義仲を葬った義仲寺前を通りすぎました。芭蕉の句碑もあり、松尾芭蕉の行動力には頭が下がる思いです。やはり才能の有る人には多種多様な能力が備わっているようです。
大津宿では明治に露国皇太子に巡査が斬りつけた場所のほかに遺構をあまり見ませんでした。露国皇太子の事件も明治になってからの出来事なので江戸の史跡ではありません。
露国皇太子遭難地の碑明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。
当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。
しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。
大津まちなか元気回復委員会