2.川崎 - 南下するにつれ雨脚は強まった
東海道五十三次 / 日本橋 - 21次 岡部宿 / / 2009-2014
川崎から南下すると雨脚は強くなった
涙橋を越え多摩川を渡る入口がよくわからずに戸惑いましたが、川を渡り六郷土手の看板からすぐ右に行かなければならなかったことを少したってから気づきました。仕方なく軌道修正すると、旧東海道の道標が出ていました。
私は東海道かわさき宿交流館で正しく旧道を歩く人向けの地図を見つけました。10キロ程度につき千円ほどします。高いけれど、これを持ち歩けば迷子になることもなかったでしょう。東海道踏破最終段階でこれに気づくとは。
また、この交流館二階には東海道行脚コスプレコーナーがあり、私は案内人の言葉にのせられ女の着物と男の着物と両方楽しみまた。小田原城にも300円程度で着せ替えコーナーがあったと思います。
本陣跡は民家が建っていました。川崎宿はそこここに看板が立っているのでわかりやすいです。田中休愚という人は、農政家、経世家として名を成していたそうです。
田中休愚宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。
さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、 するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」(みんかんせいよう)を著した。これによって享保の改革を進める八代将軍吉宗にも認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである 。
川崎宿起立四百年(二〇二三)にむけて、その文化と歴史をまちづくりに活かそう
東海道川崎宿二〇二三
注目したのは、現在42歳でこんな立派な政治家がいるだろうかということです。
川崎は政令指定都市としてますます発展してしまっているので、旧道の周辺は飲食店などの歓楽街になっています。